実際の事件をもとにした衝撃作 武田泰淳「ひかりごけ」

必読書150

こちらを手に取ったきっかけ

こちらも以前ご紹介した「必読書150」の中に載っていたものになります。

あまり内容をきちんと知らずに、いつか読もうと思っていたのですが、ふとあらすじを見たところ人肉食をテーマとしているということで、「じ、じんにく…しょく…?」と、怖いながらも興味を惹かれ、おそるおそる購入しました。こちらには、表題作「ひかりごけ」の他3作品と、筆者の人と作品についての解説が収録されています。

ひかりごけ あらすじ

雪と氷に閉ざされた北海の洞窟の中で、生死の境に追い詰められた人間同士が相食むにいたる惨劇を通して、極限状況における人間心理を真正面から直視した問題作。

「ひかりごけ」武田泰淳、新潮文庫、新潮社

しかも、こちら、実際にった事件をもとにしているというのでさらに驚愕です(「ひかりごけ事件」と呼ばれているそうです。ただ、細部は異なりますので、まったく同じと捉えない方がよいようです)。

作者 武田 泰淳(たけだ・たいしゅん) 来歴

東京駒込生れ。東大支那文学科に入学後まもなく、左翼活動で逮捕される。出署後、活動をやめ、東大も退学。1933(昭和8)年竹内好らと「中国文学研究会」を創設。’37年応召、’39年除隊。’43年『司馬遷』を刊行。’44年上海に渡り、’46年帰国後、旺盛な創作活動をはじめ、「蝮のすゑ」『風媒花』などを発表。その他『森と湖のまつり』や『富士』など多くの著書があり、’72『快楽』で日本文学大賞、’76年『目まいのする散歩』で野間文芸賞を受賞。

「ひかりごけ」武田泰淳、新潮文庫、新潮社

左翼活動で逮捕、というとちょっと激しいイメージがありますが、武田さんの実家は浄土宗の寺であり、自身も僧侶でもあり、「ひかりごけ」収録の解説にもありますように、仏教的な無常観の持主であったということです。

ひかりごけ 構成

この作品は特殊な構成となっています。
大きく2つに分かれており、

【第一部】北海道の羅臼を訪れた「私」が、「ひかりごけ」を見学する道中、案内人から、難破船の乗員が仲間の肉を食べて生き延びた事件について聞かされる。興味を持った「私」は、その事件について調べる中で、人肉食の罪について考察し、この事件をテーマとした戯曲の創作をするに至る。

【第二部】難破した船の船員が人肉食をするまで、さらに、帰還後罪に問われた船長の裁判の様子までを戯曲形式で描く。

となっています。なんと、第二部は“戯曲”!最初パラパラとページを繰った際、急にシナリオ風になったので、一体どうなっているのだろうと思いました。
しかし、この形をとったことは非常に効果的で、通常の小説としてはありえない演出が入っていても、違和感を感じずに、より事件の深みに案内される感じがします。

人間の尊厳とは 深く考えさせられる作品

船長は仲間の肉を食べたかどで裁判にかけられますが、受け答えは淡々としています。
人を食べるなんて、最大のタブーである、なんと恐ろしい、と思うものの、生きるか死ぬかの極限状態に置かれたとき、人の倫理観というのは意外と抑止力にならないものなのかもしれません。
船長にしてみれば、餓死の恐怖の中、視界に入った「食べられる」ものを食べた。命をつなぐためには、他に方法がなかったから。
そのような境遇の人に対して、そこまでの飢えに苦しんだことのない人が、果たして船長を責める権利があるのでしょうか。誰でも似たような状況になったら、船長と同じ行動をとってしまうかもしれません。最後の場面は、そういったことを表現しようとしているのではないかと思いました。

73ページの作品ですので、先が気になって読み進めているうちにあっという間に読めてしまいます。
私は、「ひかりごけ」のもうひとつの意味を知ったときに鳥肌が立ってしまいました。目をそむけたくなるような内容ですが、読む価値が間違いなくある作品だと思います。

個人的に、武田さんの抑えた筆致と、そこからにじみ出る哲学観のようなものが非常に肌に合ったというか、大変はまりましたので、他の作品も読んでいきたいと思いました。普通に生活していたらこの作品にたどり着かなかったと思いますので、「必読書150」に感謝。